ロシア:ユダヤ自治州視察記
                                                 
2007年8月25日
小島 正憲
 私はユダヤ自治州のグレーヴィッチ副州長の招きに応じて、8月9〜11日、州都:ピロビジャンを訪ねた。ピロビジャンへ行くには、日本から飛行機でハバロフスクへ飛び、そこからさらに車で3時間ほど走って入るのが通常ルートのようだった。しかしなにしろそこは、日本人がほとんど入ったことのない地域であり、私もまったく不案内な場所だったので、あえて私は、ユダヤ自治州と縁の深い黒竜江省同江市の政府幹部に仲立ちを頼み、同江市出身の中国人のロシア語通訳を選んで、同江市から黒竜江をフェリーで渡り、対岸の州都:ピロビジャンに入るルートを取ることにした。

 前もって、琿春市政府から同江市政府へ連絡を入れてもらっておき、8月8日、私は上海から黒龍江省の佳木斯へ飛んだ。そこで今回の視察に随伴してもらう手はずの、琿春市の税関主任の張さんと琿春(小島)公司の全総経理と合流し、さらに車で3時間半走り同江市に入った。同江市の入り口では、同江市共産党弁公室主任の呂さんと、輸出入管理局副主任の李さんが、私たちを待っていた。すでに夜の9時を回っていたので、そのままホテルに入り、食堂で彼らと遅い夕食を取りながら情報交換をした。

 彼らは開口一番、「日本人の小島さんがなぜユダヤ自治州に行くのか」と不思議そうな顔で聞いてきた。私は、「ユダヤ自治州のピロビジャンに工場を作り、ロシア市場に商品を販売したい。ただしロシア人は怠け者だと聞いているので、同江市にも工場を作り、そこで8〜9割ほど縫製したのち、半製品でユダヤ自治州に輸出し、ピロビジャンの工場で残りの部分を完成する方法をとりたい。そうすれば関税がかなり安くなり、よい製品を安く大量に売ることができるので、市場での競争に勝ち抜き、大儲けすることができると思っている。さらにもう一つ、欧米のアパレル企業家にはユダヤ人が多いので、ユダヤ自治州の工場を呼び水として、新たにそれらとの商流を築きたい。実際にすでにイスラエルのアパレル企業から、問い合わせが入っているほどである」と答えた。

 すると彼らは目を丸くして、「それはおもしろいアイディアだ。ぜひいっしょにやろう。明日、同江市内の経済施設を見せるので、よろしくお願いしたい。またユダヤ自治州は、ロシアの他地域とはちがい、治安がよい。なによりもユダヤ人は信義に厚い。さらに文革時代に、同江市からユダヤ自治州へ移民した中国人も多く、その人脈が生きており、通訳にも不足していない。だから同江市と組んで、ユダヤ自治州とロシアに進出するアイディアは素晴らしい」と口早に話した。さらに同江市の特性について説明をはじめた。なにしろ同江市には外資企業はまったく進出しておらず、日本人企業家を相手に話すのもはじめてということもあって、彼らは熱っぽく私に語り続けた。翌朝、彼らは前夜の言を立証しようとするかのように、同江市の諸施設の視察に私たちを連れ回した。以下に、彼らの前夜の説明と、翌朝の視察の感想(→で示す)を列挙しておく。

@同江市は20万都市であり、農業とユダヤ自治州との国境貿易が主産業である。この地方の農業は機械化されており、農民も豊かである。一人っ子の若者はあまり働かない。したがって労働者が豊富にあるというわけではない。国境貿易は木材、レアメタルなどの輸入と、繊維製品、日用品の輸出が主体である。

→確かに、市外には広大な農地があり、土地は黒々としており、大豆やとうもろこしがたくさん作付けしてあり、豊かさを感じさせるものだった。
木材市場には、ロシアからの原木がたくさん山積みされていた。ただし最近、ロシアの原木の輸出関税が高くなってきたので、ユダヤ自治州に木材加工基地を作って、加工後の製品を輸入するという方向に切り替えなければならないということだった。
港に近い場所に、ロシア輸出のための展示即売用の大きな市場が建設されていた。そこには繊維製品や日用品を扱う小さな店が、1000軒ほど入っていた。ロシアからの買出しの人たち(通称:担ぎ屋さん)が、土日で600人、平日で100人やってくるという。また隣には、400人が宿泊可能だという担ぎ屋さんのためのホテルが建てられていた。

A同江市で松花江と黒竜江が合流し大河となり、やがてロシアに入りアムール川となって北極海に流れ込んでいる。同江市には大きな港があり、3千トン級の船が川をさかのぼってくることができる。2005年までは、ここから日本の酒田市へ大豆などを直接輸出していた。ただし冬季は全面凍結する。

→黒竜江は大河であった。武漢近辺の長江よりも川幅が広く感じた。この川ならば、大きな船でもさかのぼって来ることができると思った。

B2008年着工で、ユダヤ自治州と同江市を結ぶ橋が建設される予定である。現在、夏季はフェリーで、冬季は氷の上に浮橋を作って往来している。橋ができれば国境貿易はますます盛んになる。すでにそれを見込んだ内資が土地を購入し始めたので、土地が高くなってきた。

→確かに従来の港の横で、新たに埠頭が建設されていた。橋の建設後を見込んで、ハルピンの民間企業が1億円を投資して始めているという。さらにその後背地として、1000ムーほどの土地が造成中だった。

Cここは歴史的にロシアとの国境貿易が盛んな場所で、この地の関税徴収権を清国がイギリスに譲渡したため、1910年から20年間は英国が関税を徴収していた。まだ100年前の税関事務所が現存しており、去年、その建物を設計した英国の会社から、「その建物は100年の耐用設計であるから、今後の事故にはわが社は責任を負わない」との手紙が届いた。また先日、その当時の税関官吏の孫が英国からやってきて、「その建物を買い取りたい」と言った。

→その建物は、黒竜江の河畔の草むらの中にあった。レンガ作りの2階建てであり、表門が閉じられ、文化保存物としての看板がかかげられていた。

D昨年、佳木斯から鉄道が港まで開通した。ユダヤ自治州側も港まで来ているので、橋ができれば鉄道がつながる。ピロビジャンはシベリヤ鉄道の中核地点であるから、これで同江市とモスクワやハバロフスク、ウラジオストックなどが直接つながることとなる。

→港まで鉄路が敷かれており、立派な駅ができていた。

E同江市から海南島の三亜市まで、高速道路ができる予定である。それを同亜公路と呼んでいる。

→公路の起点には、その旨を記した石碑と大きなモニュメントが建てられ、きれいな公園が作られていた。

 8月9日午後2時、李副主任がピロビジャンで貿易会社を営んでいる中国人を、通訳兼案内人につけてくれたので、私たちは安心してピロビジャンへ向った。しかし同江市を出国しようとしたとき、早くも予想外のトラブルに巻き込まれた。張さんと全さんの2人はさっさと出国できたのに、私だけは出国管理の所で、なかなか通してくれなかった。小窓の中では係官が、どこかに電話をかけてなんどもやりとりをしている様子だった。20分後、李副主任が助けにきてくれて、やっと出国許可が出た。理由を尋ねてみると、この出国管理の所を日本人が通過するのは初めてだったので、係官がパソコンへの入力方法がわからず、それを関係部署へ問い合わせたりして、まごまごしていたというのである。

 その後、私たちはやっとフェリーに乗って対岸に向った。船中は、大半がロシア人の担ぎ屋さんであった。30分ほどでロシア側についた。ロシア側の出入国管理棟は貧弱な建物であったが、意外にも入国手続きはスムーズに進んだ。ただし税関の手荷物検査で、お土産の日本人形を不思議に思われ、包装を解かれ中身を検査された。それ以外は問題がなかったので、私たちはすぐに外に出て、通訳兼案内人のフーさんの車でピロビジャン市内へ向った。道路は簡易舗装で悪かった。途中の風景が中国側とまったくちがい、ほとんどが手つかずの原野という感じだった。30分ほど走ったところで、急に畑が広がっていたので、不思議に思ってフーさんに尋ねてみると、これは中国の民間企業が土地を借りて農業を展開しているのだという。そこを通り過ぎると、また原野が続いた。約1時間半、車に揺られて、私たちはピロビジャン市内に入った。

 ホテルに着いたとき、私の時計は5時で外はまだ明るかったので、外に出かけようとしていると、フーさんが「ロシア時間では午後8時なので、ホテルで夕食を取って、明日に備えてください」と言ったので、おとなしくその指示に従うことにした。翌日のスケジュールは、午前中に市内観光、午後4時に副州長との面会、夕方は会食などで、結構忙しそうだったからである。ちなみにホテル代は三ツ星クラスで、1泊3千円ほどであった。中国よりはかなり高い感じだったが、モスクワやウラジオストックと比べると安かった。ホテルの窓から外を眺めていると、道ゆく人はほとんど半袖であり、しかもファッショナブルであった。この地では、冬季は零下30度を下回るので、毛皮やダウンジャケットのような防寒服が必要だという。季節のメリハリがあるので、衣服は結構売れると思った。

 翌朝、私たちはフーさんの車で、市内観光に出かけた。まずシベリヤ鉄道のピロビジャン駅に行った。駅の前の広場には、牛乳缶を積んだ馬車の銅像があった。ユダヤ人がここに移住してきたときの様子を記念に残したものだという。次に私たちは第2次大戦の記念広場に行った。そこはかなり広い場所で、ほとんどの記念行事がそこで行われるということだった。次に行った州議会の建物の前には、レーニン像が健在だった。

 さらにシナゴーグ(ユダヤ教会)にも行ってみた。そこでは突然の訪問にもかかわらず、ラビ(ユダヤ教の教師の敬称)が気さくに教会内を案内してくれた。お祈りのときの小さな帽子を貸してくれたので、それをかぶって記念撮影をした。また教会内に小規模の博物館が併設されていたので、見学させてもらった。その教会から50メートルほど離れたところに、立派なロシア正教の教会が建っていた。

 青空市場にも行ってみた。そこは中国や韓国の同種の市場と比べて、きれいで衛生的であった。多くの人で混雑しており、盛況であった。食料品を中心にした市場ではあったが、野菜が少なかった。2人組みの警察が巡回しており、ときおり不審な人間を尋問していた。治安は良さそうだった。次に市中心部の高級スーパーに入ってみた。ここも店内は、日本のスーパーと同じくらいきれいだった。価格は青空市場の3倍ほどで、野菜を除いて品揃えは豊富であった。日本のペットボトルのお茶まで売られていた。人はちらほらだった。

 私たちは午後4時ちょっと前に、ユダヤ自治州庁舎に着いた。グレーヴィッチ副州長が、わざわざ玄関まで出迎えてくれた。フーさんの話によれば、ユダヤ自治州はこのグ副州長が実質的なトップであり、彼が表まで出てきて迎えるのはめったにないことだという。グ副州長は50代後半で、小柄で気さくな感じのする人だった。庁舎に入ると、すぐに厳重なセキュリティチェックがあり、一般の来訪客は並んでそれを受けていた。私たちは賓客扱いで、それを素通りしそのままエレベーターに乗り、4階の副州長室に通された。部屋は10畳間ぐらいしかなくて、狭かった。同行していた張さんが、自分の主任室よりも小さいと驚いていた。

 私たちがテーブルに着くと、グ副州長はすぐに先日のハルピンでの会談メモを取り出して、「私はこのプロジェクトを重要視している。行政として最大限の援助をする意志である」と切り出してきた。また「ユダヤ自治州モスクワ支所を活用して販売が可能であり、販売業者や合弁相手の紹介もできる。また昨日、イスラエルのアパレル企業の社長から電話があり、小島さんのことについて2人で話しあった。彼は私の知人であり、かつて地元の有力者で、洋裁学校も経営していた。奥さんはデザイナーである。12年前にイスラエルに惜しまれて移民し、そこでアパレルとして成功したと聞いている。彼は小島さんがユダヤ自治州で縫製工場を作るのならば、彼もここに帰っていっしょにやりたいとのことである。彼にしてみれば故郷に錦を飾るという気持ちであろう。私もそれをおおいに歓迎する」と言った。

 その後、グ副州長は書類を持ってきて、いろいろな外資優遇策を説明しはじめた。残念ながらそれは、ロシア語と中国語で書かれていたため、肝心な部分について十分に理解できなかったので、中国に持ち帰って日本語に翻訳してもらうことにした。これは次回のレポートで紹介する予定である。最後にグ副州長は、「現在、この州にユダヤ人は3千人ほどしか残っていない。ほとんどが移住してしまった。それでもユダヤ自治州はモスクワ政府の直轄州となっており、かなりの優遇政策がある」と強調した。

 私はグ副州長に、「地元のロシア人パートナーや、イスラエルのアパレルの社長をぜひ紹介していただきたい」と頼み込んだ。彼は、「明日、地元のパートナーの工場ヘ行き、直接紹介する」と快諾してくれた。さらに私は、「アムール川を利用して、ユダヤ自治州のレアメタルや砂利などの特産物を日本に輸出したらどうか」と提言してみた。ところが意外にも彼は、それにはまったく関心を示さなかった。ユダヤ自治州での雇用の創出を重点的に考えているようだった。私は最後に、グ副州長に日本人形を渡してその部屋を出た。

 翌朝、時間通り、グ副州長がホテルまで迎えに来てくれた。私たちは車で縫製工場へ向った。10分ほどで、古ぼけたビルの前に着いた。中から出てきた社長は大柄で、腹が出っ張った男だった。きっとユダヤ人ではないだろうと思って聞いてみると、案の定、タジキスタン人だという。さらに本人から、わざわざチェチェン人ではないと自己申告があった。グ副州長が、「彼はユダヤ人ではないが、信用ができる男だ」と笑いながら話し始めると、それをさえぎるようにして、タジキスタン人の社長が、「この工場では、ニット製品を主体に作っており、極東ロシアを中心にして10数店舗を持って、直接販売している。現在、売り上げが年20%で伸びているので、小島さんが協力して工場をやりたいのならば、モスクワ販売まで手がけてもよい」と話しかけてきた。  

 とにかく私は工場の中が見たかったので、適当にその話しを切り上げて、工場を案内してもらうことにした。現場は15年前の中国の工場のようで、薄暗く汚くて、未整理で、設備もかなり古いものであった。従業員数は104人だということだったが、その日は土曜日で工場が休みだったので、その働きぶりを確かめることはできなかった。この工場の前身は国営で、70年の歴史を持っており、それを5年前に彼が買い取ったという。

 製品は、縫製面ではしっかりしていたが、素材とデザインが悪く、日本や中国ではとても売れるしろものではなかった。しかしロシア市場では、これでもよく売れているというのだから、私と組んで改善すればもっと儲かると思った。中庭に出て、工場を見返したとき、ふと17年前の中国の工場の光景が脳裏に浮かんできた。そして≪思い返せばあのとき、私はこのような地元企業と合弁して、大儲けすることができたのである。だからひょっとすると、このロシアの地でも、あのときの再現ができるかもしれない≫という考えが、私の頭の中をよぎった。

 そのあと、ピロビジャン市内にある彼の小売店を見に行った。そこでは製品が、日本の夜店の叩き売りのように陳列されていた。それでも結構売れるというので、陳列方法を改善するだけでも、かなり売り上げを伸ばせるのではないかと思った。店を出たところで、私は彼に、「とにかく一度、琿春工場へ来てください。私の工場の製品を見てもらって、協力方法を具体的に相談しましょう」と話した。彼は快諾し、「10月下旬に行きたい」と答えた。彼と別れて私たちはふたたびホテルに戻り、そこでグ副州長に、「イスラエルのアパレル企業との合弁事業も、タジキスタン人社長との話も、同時進行で進めて欲しい」と頼んだ。彼はうなずきながら、「10月下旬に、彼ら2人の企業家といっしょに、琿春工場を訪ねます」と約束してくれた。

 帰り際に、グ副州長が私にお土産をくれた。彼は笑顔で、屋根を指差しながらバイオリンを弾く真似をした。私はすぐに、若いときに見た映画の「屋根の上のバイオリン弾き」の人形ではないかと思い、心を弾ませて包みを開いた。予想通り、そこからはバイオリン弾きのブロンズが現れた。私はそのお土産から、≪歴史の重みと芸術の香り≫を感じ、いまさらながらユダヤ人の見識に驚いた。そしてぜひ、このグ副州長と親しくなって、ユダヤ人の苦難の歴史や彼らの輝かしい業績について、たとえわずかでも学んでみたいと思った。

 ロシアを出国するとき、税関で若い係官に、また私だけが別室へ呼び込まれた。ロシア語で話しかけられて閉口したが、多分、あのブロンズが問題なのだろうと思って、トランクの中から取り出して見せ、グ副州長の名刺も示して、お土産であることを身振り手振りで説明した。ところが彼はその人形にはまったく関心を示さず、私の手持ちカバンを指さし開けろという。さらに中の財布をみつけ、その中身を全部だせという。そこでやっと私は、彼が外貨の持ち出しについて調べたいのだということがわかったので、有り金を全部見せた。彼は米ドル、人民元、日本円をそれぞれきちんと数え、それをノートにつけ、交換レートらしきものと照らし合わせながら、しばらく計算器をたたいていた。そしてそのうちに手でOKサインを出し、その部屋を出るように手を振った。その間、彼はぶっきらぼうだったが、決して強圧的ではなかった。私はタイやミャンマーなどで、今回のように別室へ連れ込まれ、そこで多額の賄賂を要求されたことが幾度もある。それらの経験から比べると、今回のロシア税関は意外に紳士的であった。

 私は日本に帰ってすぐにレンタルビデオ屋さんに行き、「屋根の上のバイオリン弾き」を借りて来て、見なおしてみた。そしてあのピロビジャン駅前の銅像が、このビデオの冒頭シーンに出てくる馬車であったことに気がついた。