「今、米国のアパレル業者の大半は、商品の多くをメキシコなどの縫製業者から輸入していて、中国には仕事を出していない。米国は中国にクオーター制度(輸入割当制度)を適用しているので、例えば、婦人用ジャケットを輸入すると、一着5〜6ドルのクオーター取得料を払う必要があるからです。しかし、中国がWTOに加盟し、この規制はまもなく全廃される。すると、中国の縫製工場にも米国から注文が入るようになり、日本向けの仕事をしていた中国の業者は、一斉に米国向けに仕事を切り替える。米国向けと日本向けでは加工賃は変わらないが、量が10倍有るし、求められる品質が低いからです。そうなると何が起きると思います?」
上海市郊外にある縫製工場、上海美旭服装有限公司の一室で、小島正憲はこう切り出した。
「そう。中国から、日本向けの仕事をする縫製業者がいなくなる。日本のアパレル業者が仕事を頼めるのは、大陸に一定規模の生産拠点を持つ私達のような日系企業だけ。加工賃は2〜3倍になるはずです。つまり、大不況の日本に本社があって、斜陽産業に身を置く会社が、これから黄金期を迎えるんです。面白いでしょ?」
小島は、中国に二つの縫製工場を経営している。一つは上海美旭。もう一つは内陸へ700km入り込んだ湖北省黄石市にある湖北美島服装有限公司だ。上海には93年、黄石市には90年に進出した。 小島はこの2社以外にも、最新のCAD(コンピュータによるデザイン)を活用して洋服のパターン(縫製する際の基準となる型紙)を設計する上海桜島服装設計有限公司など、三つの会社を中国に持つ。グループの年商は約50億円。従業員は1万人を超える。
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にもかかわらず、日本での小島の知名度は決して高くない。それもそのはず、岐阜市の本社は、企画・販売のみを手掛ける40人の中小企業な上、小島自身、この10年、ほとんど日本を留守にしていたからだ。
「89年は韓国、90年からは中国。オーストラリア、ミャンマーにもいた。2003年は、十数年ぶりに1年の半分を日本で過ごしましたね。
「日本で経営者なんて
やってられない」
小島は47年、小島衣料の創業者、小島正の長男として生まれた。物心ついた頃から縫製工場の中で育ち、二代目という自分の立場に特に疑問を抱くこともなく、大学卒業と同時に同社へ入社。先代の急逝に伴い、81年に社長になった。そんな彼が、海外進出を決意したのは87年である。
一般的に、この時期、中国へ進出した経営者にはいくつかのタイプがある。「日本と中国の架け橋になりたい」というロマン派、「日本が中国に対して犯した罪を少しでも償いたい」という贖罪派などだ。しかし、小島はいずれのタイプでもない。
「日本で社長なんてやってられるか」――。小島が海外へ目を向けたのは、そうした想いからだった。
小島が会社を継いで4年目、縫製業界は深刻な不況に見舞われた。85年のプラザ合意を機に、安価な韓国製品が流入。同業者はばたばたと倒れ、小島衣料も借金が年商と同じ規模まで膨れ上がった。

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