さらに時期を同じくして、日本中が空前の人手不足に陥った。人材を確保するため、小島は県内中の高校に行き求人活動をしたが、地味な縫製職場を希望する学生はいない。辞められては一大事と、いつの間にか既存の従業員にまで気を使うことも増えた。そして 決定的な事件が起きる。
「ちょっと社長!酒を注ぎに来るのが遅いよ!」
 場所は87年の慰安旅行での宴席。罵声の主は、その年の新入社員だった。
 「個人資産を抵当に入れて、プレッシャーに苛まれながら人一倍働いて、従業員のご機嫌を取って・・・・。その挙げ句に、青二才からこの言葉でしょ。『この国で社長ほど損な商売はない。』って心底思いました。そもそも縫製工場なんてものは、100人募集をすれば1000人応募が来るような土地でないと成立しない。だっだら、こっちからそういう場所に行ってやろうじゃないかって思ったんです。」
 翌日から進出先探しが始まった。新天地での事業が軌道に乗るまでは、日本の工場は稼働し続けなければならない。候補地選びから現地視察まで、小島はすべてを一人でこなした。
 韓国では実際に1年間、工場を運営したが、人件費が高騰して断念。オーストラリアやタイへの進出も検討したが。パートナーが見つからず、最後に残った候補地が中国だった。内陸部を選択したのは、先輩の同業者が当地へ進出していたためだった。
 90年5月。湖北省の省都・武漢に降り立った小島は、3時間程、車に揺られ、黄石市に足を踏み入れた。それは、小島衣料の国際展開の第一歩であると同時に、小島の長く孤独な戦いの始まりでもあった。



食事はスイカ、
     幹部はマージャン

 黄石市との合弁会社、湖北美島の操業を開始した小島をまず最初に襲ったのは、猛烈な暑さだった。「中国のへそ」と呼ばれるこの1帯は巨大な盆地で、夏は40℃を超える。慣れない料理と暑さで食べ物が喉を通らなくなり、食事は地元産のスイカだけという日々が続いた。
 中国人特有の労働観も、小島を苦しめた。
 25人の従業員達に雑巾掛けを教えても、スケートのように足で床を拭くのをやめず、トイレに置いたスリッパは3日で紛失した。少しでも目を離すと、多くの者が雑談を始め、トランプに興じる。自分の編み物に熱中する者すらいた。市から派遣された幹部は一日中、マージャン。私用での外出など日常茶飯だった。 「気晴らしをしようにも何もないところでね。道は凸凹で、車で走ると、すぐに穴に落ちてしまう。すると、農民達がわっと出てきて、車を引っ張り上げる代わりに金を要求してくる。もう悔しくて。夜は真っ暗で、電灯一つない。朝になるとまた、中国人達との不毛なやり取りが始まる。最初は″地獄の果て″に来たと思いました。」
 それでも、小島に帰国するという選択はなかった。この時、小島衣料は二期連続の赤字で、銀行から「今年で最後」と引導を渡されていたからだ。
 小島は開き直って考えた。「共産主義の下で育ってきた彼らに、働く喜び、達成する喜びを教えるにはどうすればいいのか。」


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