
1935年1月、紅軍:第1方面軍は、長征途中で貴州省を横断した。そのとき遵義市で、共産党の重要な会議が開かれ、そこで毛沢東が指導権を奪取したと言われている。さらにその後、毛沢東は赤水河の渡河作戦を指揮し、国民党軍を翻弄しその追撃を振り切った。これによって毛沢東は共産党内に不動の地位を確立したと伝えられている。しかし最近になって、これらの事実を見直すような見解が発表されるようになった。
2008年6月28日、日本のマスコミでは中国貴州省瓮安県で2万人を超える規模の暴動が起きたと報道された。この瓮安県の位置を地図で確かめてみると、それは遵義市の近くであり、紅軍:第1方面軍もその周辺を通過し、戦っている。そこで今回、私は長征(“遵義会議”と“四渡赤水”)とこの瓮安県の暴動の調査を兼ねて、7/23~27の5日間、貴州省の現地を歩いてみた。
1.貴州省暴動の実相
現在、瓮安県では、外国人の取材活動は許されておらず、私は中国人を装って隠密行動を取らなければならなかった。したがってカメラで生々しい現場を撮ることはできなかった。それでも事前に現地の通訳と入念に打ち合わせておき、いろいろな人から多くの貴重な情報を得ることができた。その結果、日本のマスコミでは報道されていない重要な事実が、数点、判明した。
①まず、日本のマスコミの貴州省瓮安県の暴動に関しての報道を整理しておく。
日本経済新聞7月1日付けは、「6月28日貴州省瓮安県で数万人規模の暴動が発生した」と伝え、さらに「同県では6月下旬、少女暴行事件が発生。公安局が容疑者数人を逮捕後間もなく釈放したため、親族らが28日、公安局に抗議に向った。容疑者には地元公安局幹部の親族がいたとされ、不透明な捜査を巡り住民らの不満が爆発、暴動に発展したと見られる」と付け加えている。
時事速報:7/02付けは、「香港紙:リンゴ日報は、瓮安県の暴動のきっかけとなった少女殺人事件を、もみ消そうとしたのが同省公安庁長(警察本部長)経験者だとの説がインターネット上で流れていると伝えた」と報道した。
時事速報:7/03付けは、「死亡した少女の捜査を巡る警察への不満がきっかけとなって発生した瓮安県の大規模暴動で、地元政府は1日夜、記者会見し、少女の死因は水死で自殺と発表した。遺族らが疑った性的暴行の形跡はなかったと強調した。政府は情報公開により、事態収拾につなげたい考えだ。警察は暴動の発端について、自殺との判断を受け入れなかった遺族の求めに応じ、検視を再び実施し、その結果に遺族もいったんは納得したが、少女の親類が約300人を集め、デモ行進、暴徒も加わって騒ぎが拡大したと説明した。発表によると、省政府や公安当局の庁舎が焼打ちに合うなど大きな被害が生じ、警察官ら150人が負傷したが、死者はいない。警察は、地元の暴力組織メンバーら約50人を拘束、暴動が悪質な不法分子による犯罪であると訴えた」と伝えている。
②瓮安県暴動の実態
上記のような日本のマスコミ報道と、私が見聞した現地の状況とは、以下の諸点でかなりの相違がある。
- 第1点は、この暴動が2千人規模であり、数万人という報道はオーバーであり間違っているということである。暴動現場は旧市街の真ん中にあり、政府と公安の庁舎はL字型に建っていた。その前は道路と広場になっており、道路の突き当たりが政府庁舎、公安庁舎と道路を挟んで反対側に、一般商店が並んでいた。その広場に通じるすべての道は、車が対抗して通れないほど狭かった。私はその広場の真ん中に立って、壁面が破壊され修復中の政府と公安庁舎を見上げた。そしてその広場で暴徒が走り回り、投石や放火をしている様子を想像してみた。そしてこの広場に入ることができるのは、2千人が限度であると確信した。さらに狭い道路を50mほど行ったところに、人民武装部の建物があり、それはまったく破壊されていなかった。つまり暴動は広場だけであったということであり、そこに数万人が集結することは物理的に不可能だと断定できる。タクシーの運転手に聞いてみたところ、広場に暴徒が2千人強、狭い道路を含むその他の場所に野次馬が数千人だったと話してくれた。
- 第2点は、瓮安県の暴動では政府と公安庁舎だけが破壊されており、チベットの暴動とは違って、一般商店には、被害がまったくなかったという点である。マスコミはこの点をまったく報道しておらず、チベットと同じ暴動という表現を使用している。政府への抗議に限定されている行動と、一般商店の破壊略奪を伴う行動とは、明らかに違いがある。この点を区別して報道するべきではないか。
- 第3点は、この暴動の主体が暴力組織であったという点である。広場近くのレストランの主人に聞いたところ、この瓮安県は中国でも偽札が多いことで有名な場所だそうであり、その店でも勘定の際には神経を尖らせているという。おもしろいことに広東省あたりの偽札は最新IT技術を駆使して作られているが、瓮安県の偽札は手作りだそうである。この瓮安県には大きな暴力組織が3つあり、それらが始終抗争を繰り返しており、レストランや商店なども、これらの暴力組織に日本でいうところの“みかじめ料”を払わないと恐くて営業できないという。今回の暴動は、これらの暴力組織の抗争に公安が巻き込まれたというところではないかということだった。
- 第4点は、瓮安県は黔南布依族苗族自治州に属しており、少数民族地域である点である。ただし布依族と苗族を合わせても5%ほどであり、残りの95%は漢族だということだった。瓮安県の人口は4万人で、周辺人口を合わせれば46万人ほど。この自治州の南部の方では、少数民族が半数を超える県があり、貴州省の東南部には苗族を中心にして自給自足状態の少数民族も多数存在している。貴州省の少数民族は雲南省とは違い、あまり観光地化されておらず有名ではない。レストランの主人の話しによれば、今回の暴動には民族問題は絡んでいないということだったが、チベット問題と比較検討するためにも、マスコミはこの点を開示しておくべきではなかっただろうか。ちなみにレストランの看板料理は布依民族料理であった。
- 第5点は、瓮安県の近くにアジア最大の燐鉱石の採掘場があり、数年前にその鉱山の拡大が行なわれ、農民の土地が強引に接収されたため、それに不満を抱いている人間が多いという点である。またその接収の際に、暴力組織が絡んでおり、その恨みや対立抗争も尾を引いているという。
- 第6点は、タクシー運転手の話によれば、少女が暴行され殺されたというのは作り話で、実際には夕方、2人の友人といっしょに酒を飲んだ少女が、発作的に川に飛び込んだので、友人たちは慌てて助けたが、すでに死んでいたのだという。運転手は、慎重に言葉を選びながら、その少女の関係者に問題の人たちがいたようだと話してくれた。
③瓮安県の暴動は、マスコミが大規模な暴動に仕立てあげたものである。
暴動を、民衆の不満の爆発と理解することは間違いではない。現代中国に、民衆の間に多くの不満が鬱積し、それが政府機関の破壊という行為に向わせているという底流が存在していることは否定できない。しかしながら、事態を詳細に眺めていくと、底流だけではない多彩な要素が絡んでいることがわかる。むしろその要素の方が強く影響を及ぼしている場合もある。したがってすべての暴動を一律に、虐げられた民衆と腐敗した政府との対立という単純な構図でのみ語るのは、真実を誤認する危険性がある。
7/27の日本経済新聞は、社説「五輪を迎える中国:人権の改善と民主化を加速する契機に」と題して、「中国では今年、多くの死傷者を出した3月のチベット騒乱など暴動やテロ未遂事件が続発している。6月下旬も貴州省で住民3万人と警官隊が衝突した。農民や住民らによる暴動は年間数万件に達する。経済の高成長が続く反面、貧富の格差や官僚腐敗で民衆の不満が高じ、社会不安を増幅している現実を反映している」と主張している。この中の貴州省の住民3万人の暴動という表現は事実誤認であるし、チベット騒乱についてもまだその評価は確定していない。これらを引き合いに出して中国の現状を語るのは軽率である。
④貴州省瓮安県の暴動の結末
時事速報:7/14付けによれば、「貴州日報は、瓮安県の大規模暴動をめぐり、同省公安庁は12日までに355人を取り調べ、100人を身柄拘束し、このうち39人は暴力組織メンバーだったと報じた」
時事速報:7/23付けによれば、「22日付けの香港各紙は、中国共産党貴州省委員会は19日、黔南布依族苗族自治州の幹部会議で、同自治州党委の呉廷述書記を解任し、省農業庁の黄家培庁長を後任とする人事を発表した。大暴動に絡む懲罰人事とみられる。この暴動は、県党委書記・県長・県公安局長らに続いて、省主要幹部の一人である自治州トップが更迭されるという異例の事態に発展した。暴動の背景には現地当局の横暴や腐敗に対する長年の不満があるとされ、一連の人事は“人民に近く”“人を持って基本とする”といった方針を掲げる胡錦涛主席ら中央指導部が指示した可能性が大きい」
新華社:7/26付けによれば、「7/25、瓮安県公安当局は今回の暴動の首謀者として、暴力団“玉山幇”の幹部:韓波ら30人を逮捕した」
2.“遵義会議”と“四渡赤水”
①通説:長征における“遵義会議”と“四渡赤水”
1934年10月、中央根拠地を出て長征の途についた第1方面軍(10万人)は、1か月後の湘江の封鎖線突破にあたって、莫大な被害を受け、兵力を3万人ほどに減らしてしまった。この戦いが終わると、党中央の軍事指導に対する兵士の不満は急速に強まった。このとき毛沢東は指導部メンバーから外されていたが、貴州省に近い通道で開かれた軍事委員会で、「湖南省北西部へ向かい賀竜の率いる第2方面軍に合流する計画を放棄し、貴州省の遵義方面へ向う方針」を提起した。朱徳を始めとする軍の指揮官はこの提案を呑んで、貴州省の遵義を目指した。
1935年1月、遵義において拡大政治局会議(いわゆる“遵義会議”)が開かれた。会議ではまず、共産党書記の博古がそれまでの軍事路線の誤りを認める発言を行なった。ついで周恩来が戦法の誤りを認め、素直に自己批判した。3人目の発言者は毛沢東で、博古と李徳のこれまでの軍事方針を、「防御では保守主義、攻撃では冒険主義、退却では戦闘主義」と激しく批判した。4人目は王稼祥で、今後は毛沢東が紅軍総指揮の任に当たるべきだと発言した。さらに朱徳などの幹部が毛沢東支持の発言を行った。3日間の討議の末、毛沢東を主席とする中央軍事委員会が統一指導を行なうことになった。この“遵義会議”以降、中国共産党内における毛沢東の指導権が確立したのである。
その後、毛沢東は張国燾率いる第4方面軍と合流することを目指し、遵義を出発し四川省東南部を目指した。貴州省と四川省の境界には赤水河が流れており、紅軍の行く手を阻んでいた。さらに蒋介石は合流を阻止するために、四川省東南部や湖南省南部に大兵力を展開し、紅軍を迎撃する態勢を整えていた。毛沢東は土城鎮の近くで赤水河を渡り、四川省に入り、予定通り北上する構えを見せておき、再度、太平鎮と二郎鎮の近くで赤水河を渡り、蒋介石の兵力の手薄になっていた遵義へ戻る戦術を取った。慌てた蒋介石は地方軍閥に遵義から出て、婁山関で紅軍を食い止めるように指示したが、彭徳懐率いる紅軍部隊に蹴散らされた。こうして紅軍はふたたび遵義に戻った。
2月、蒋介石は遵義に居座っている紅軍を、貴州省や雲南省の軍閥を貴陽に集め、南方から攻撃させた。毛沢東は四川省東南部へ向けると見せて、茅台鎮で、三度、赤水河を渡った。そのとき貴陽にいた蒋介石と宋美齢は、これで四川省東南部と湖南省南部に展開している軍閥部隊や国民党正規軍と、貴州省・雲南省から攻め上げる部隊で、紅軍を包囲殲滅できると喜んだ。それらの兵員数は50万とも75万とも言われており、水も漏らさぬ包囲網となっていた。ところが毛沢東は反転して、二郎鎮と太平鎮で、4度、赤水河を渡り、急行軍で遵義の横をすり抜け、蒋介石と宋美齢が陣取っている貴陽を直撃する方針を取った。
そのとき貴陽の蒋介石の手元には、部隊がほとんど出払ってしまっており、手薄であった。蒋介石は毛沢東のこの奇想天外な作戦に驚愕し、貴陽を脱出しようとしたが、すでに飛行場は紅軍に押さえられていたため、逃げ出すために馬とカゴを手配したほどであった。さらに毛沢東は貴陽を攻めると見せかけて、南方をするりと通り抜け、雲南省東部へ入った。ここは軍閥が四川省東南部へ出撃してしまっており、ほとんど抵抗がなかったので、そのまま昆明近くまで進撃し、直前で右旋回し、四川省との境界である金沙江を目指した。このように毛沢東の卓越した“四渡赤水”戦法により、紅軍:第1方面軍は国民党軍を翻弄し、窮地を脱した。
②私の見た“四渡赤水”戦術
※冒頭の地図の赤水河のところを参照のこと。
毛沢東の“四渡赤水”戦術は、蒋介石を驚愕させ、翻弄した。これは日本の関ヶ原合戦のとき、徳川家康を驚愕させた「島津義弘の敵中突破」を思い起させる。これがまさに軍事の天才:毛沢東の名前を、天下に響き渡らせた名作戦である。これは「孫子の兵法の中の示形戦法」を、縦横無尽に駆使したお手本のようなものである。牛若丸と弁慶のように、蒋介石は毛沢東が西へ行くと思って待ち伏せていると、毛沢東は反対に東にあらわれ、敵を引き回し、各個撃破し、撃滅戦に出て、兵員と武器弾薬を補充し、味方の損害を最小限に食い止め、包囲網を抜け出し、しかも敵の本陣に肉薄した。この作戦は激賞に値する。
私は遵義で現地の観光ガイド(日本語通訳兼任)を頼んで、運転手付きレンタカーを借りて赤水河ヘ向った。車中でガイドさんと行程の打ち合わせを行なったが、“四渡赤水”の話がどうしても噛みあわなかった。彼は「すべての渡河点を見たい」という私の望みについて、「毛沢東が渡ったのは1か所だから、それを見ればよいのではないか」と主張するのである。彼は遵義生まれであり、重慶の大学で日本語を学んだという若者で、流暢な日本語を話し利発そうな男であった。その彼が、前の晩に“四渡赤水”のことをインターネットで調べ上げた結果だと言って、「紅軍の3万超の大軍が、土城鎮付近で、4度に分けて赤水河を渡ったこと」を“四渡赤水”というのだと力説する。もちろん地元の観光ガイドの彼も、現場には行ったことがないという。私は論争をあきらめて、とにかく土城鎮の“四渡赤水記念館”に案内してもらうことにした。
悪路を走ること6時間、へとへとになって土城鎮についた。立派な記念館だったが、オフシーズンだということで見学者はだれもおらず、照明がすべて消されていた。それでも記念館の案内人が照明を点け、丁寧に説明してくれた。“四渡赤水”の戦闘経過が非常によくわかる掲示がしてあり、同行したガイドの彼も目を丸くして見入っていた。そして私に深く頭を下げ、自分の誤りを認めた。私は彼とのやりとりの中で、地元の観光ガイドでも“四渡赤水”を知らないぐらいに、中国人の間では長征が風化してしまっているのだと思った。
記念館を出て、土城鎮、二郎鎮、太平鎮とそれぞれの渡河地点を見て回った。それぞれが車で20分ぐらいの位置にあった。赤水河は8年前に見た金沙江や先月見た大渡河と比べると、穏やかな河であった。川幅も狭いところでは50mぐらいで、うまく浅瀬をたどれば渡河はそんなに難しくないような気がした。ただしその名の通り、赤濁した河であった。
茅台鎮は遵義の方へ、3時間ほど戻った上流にあった。有名な貴州茅台酒の産地で、街中に甘い酒の香りがただよっていた。長征途中の紅軍兵士がここを通ったとき、酒の飲める兵士はたらふく飲み、飲めない兵士は疲れた足を酒で湿布したという。街の真ん中に、渡河記念碑があった。そこは少し川幅が広くなっており、船でないと渡るのは無理なようであった。現在でも、この赤水河には橋が少なく、渡し舟が活躍しているという。途中の川べりには、ところどころにエンジンのついた船や手漕ぎの船が係留してあった。
翌日、婁山関に出かけた。確かに「一夫関に当たれば、万夫も開くなし」とうたわれた“函谷関”に匹敵する要害だった。以前私は、上海の婁山関路という住所に住んでいたので、この場所がなんとなく身近に感じられた。長征当時は湖南省側から遵義へ入るには、この難所を通る以外に道がなかったという。彭徳懐が銃を据えつけて激戦を展開したという山頂には記念碑が立っていた。共産党関係の人たちが、革命歌をうたいながら次々と昇ってきて、そこで記念写真を撮っていた。
③通説“遵義会議”の見直し
通説では、華麗なる“四渡赤水”作戦で、遵義会議で決定した毛沢東の指導権が名実共に確定したと言われていた。ところが最近の研究では、その裏側で彭徳懐と劉伯承をトップに据えようとした動きなどがあったと伝えられている。そして毛沢東が完全に指揮権を掌握したのは、金沙江を渡り、四川省の会理会議であったという説が有力となっている。
- 林彪は、“四渡赤水”から四川省の会理までの間で、彭徳懐と劉伯承をトップに据えようという画策を行なった。“遵義会議”以後、教条主義者たちは毛沢東の指導に納得できなかったので、ひそかに毛沢東をトップの地位から引きずりおろそうと考えた。ことに林彪は聶栄瑧に、毛沢東の“四渡赤水”作戦を批判し、「四川省の南部に向うのは、太平天国の石達開がかの地で全滅した例があるように、たいへん危険である。この際、トップを変えるべきである」と告げたという。さらに聶栄瑧・左権・羅瑞卿などの前で、彭徳懐に電話をかけ、「毛沢東の指導はよくない。貴方がトップに立ってください。このまま毛沢東の指導に従っていけば失敗することは目に見えている。我々は貴方の指示に従い、貴方といっしょにやりたい」と話したという。しかしそのとき、彭徳懐は断ったという。その後、林彪は共産党中央の洛甫宛てに上記の内容の手紙を書き、聶栄瑧に合意サインを求めた。しかし断られたので、単独で手紙を出したという。【出典】「大長征」:李慶山(中国人民解放軍軍事科学戦争戦略研究員)著
- 彭徳懐の「自述」によれば、劉少奇は楊尚昆と連名で、会理会議前に中央軍事委員会に電報を打ったという。その内容は具体的にはわからないが、劉少奇は彭徳懐に、「現在、兵士は戦いで死ぬことは恐れていないが、負傷するのを恐れている。急行軍や夜行軍は恐れていないが、病気で落伍することを恐れている。これは革命根拠地を持っていないことへの恐れである。“遵義会議”で四川省に根拠地を作ると決定したとき、それを兵士たちに告げるとたいそう喜んでいた。しかし今はその希望が消えてしまった」と話し、中央宛の電報に賛意を求めたが、彭徳懐は断ったという。
- 毛沢東と周恩来が金沙江渡河を指揮しているとき、洛甫から林彪の手紙が転送されてきた。事態を重く見た毛沢東は、全軍を渡河させてから、行軍中に周恩来、王家祥、朱徳、博古、李徳などと意見交換した後、会理県城で政治局拡大会議を開いた。会議の席上、毛沢東は林彪の挑発的な手紙に対して、「貴方は子供でなにもわかってはいない。今の時期、直接敵と戦うのはよくない。回り道の作戦こそが最適なのである」と軽く一蹴し、再度、指導部全員の意志を結束させた。